日本人真的對戰國這段歷史滿著迷的~大大小小的書都有賣呢^^
小弟個人欣賞滿多日本戰國武將的~
可是石田三成這個人滿佩服的!
當時大谷吉繼身染痲瘋病,當時這種病可是人見人怕的~
宴會時沒人敢喝下他喝過的酒碗...
不過石田三成二話不說就拿起他喝過的酒碗一乾而盡!
說真的很少人能有這樣的勇氣與義氣~
換成是我也做不到啊~~
雖然石田三成最後兵敗被德川家康在京都斬首示眾...
不過這個故事真的是讓我滿感動的~
想想如果家人還是朋友甚至情人染上愛滋病...
你我是否還會一如往常對待他還是疏遠他??
個人真的很喜歡戰國的東西呢~
至今跑過大阪城、名古屋城、歧阜城、姬路城、犬山城、岡崎城、日光東照宮、茶臼山(大阪夏之陣真田軍的本陣)
目標是日本100名城制霸!!(遠望~~)
茶臼山照片跟各位同好分享^^

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上洛(じょうらく)とは、京都に入ることを意味する語である。
京の都が漢の古都になぞらえた雅称として「洛陽」「京洛(けいらく)」などと呼ばれたことから。
由来
狭義では、室町時代末期(戦国時代)に、京都にいる室町幕府の将軍を保護することを意味し、
結果として全国支配に必要な権威をもたらすことであるとされた。
かつて京都は、中国の都であった洛陽に擬えて「洛陽」とも呼ばれており、
京都へ上ることは「上洛」とも称され、広義においては現在の「上京」と同様の意味で用いられていた。
対義語に、下洛(げらく)がある。下洛とは、京都を離れることである。
また、上洛という煌びやかイメージとは逆に、落ちぶれた有様を喩えることもある。
戦国時代の上洛
16世紀半ばになると応仁の乱以後100年以上も続く政局不安状態はすでに常態と化しており、
いわゆる戦国大名とよばれる領国支配者にとっても庶民にとっても、このような状態は普通になっていた。
各地の勢力が独立した状況において、既に戦火で荒廃した京都の支配に実質的な意味はなかったが、
将軍の御所はいまだ京都にあり、将軍を保護することは自らの力を示す最高の機会だった。
細川氏や三好氏といった家臣によって追放されていた足利将軍家の将軍を京都に連れ戻して保護を与えることは、
失われた秩序の回復者としての名誉を得ることだったからである。
このため、大きな勢力をもつ戦国大名たちはそれぞれに上洛を企画したが、実現は領国における抗争に妨げられ、
成功したものはいなかった。例えば今川義元は上洛の途上で織田信長軍に討ち取られ、
上杉謙信は内紛の不安や雪などに阻まれて加賀国以西に進むことができなかった。
また、武田信玄は途上で病死した。これらの大名たちの領国は京都から遠く、
上洛しようとすれば途上の勢力の抵抗や本国の内紛などを一つ一つ片付けていかなければならなかったのである。
このような状況下で実際に上洛を果たしたと言えるのは、永正年間に足利義稙を擁して上洛した大内義興と、
永禄年間に足利義昭を擁して上洛した織田信長の2人だけである。
尚、上杉謙信や青年時代の織田信長は、将軍拝謁などを目的とした、広義での上洛は行ったことはある。
大内義興の上洛の大義名分は、旧秩序の回復を目的、すなわち足利幕府の支配を回復させることにあった。
だが、大内氏の場合、それが完成する前に尼子氏ら反大内勢力の挙兵に阻まれて領国への帰還を余儀なくされた。
これに続く他の戦国大名の目的もその方針は大内義興と大差のないものであり、かつ実現すら叶わなかった。
しかし、織田信長は、古い権威ではなく武力によって新しい秩序を作ろうと考え、彼の上洛はその足がかりとして
行われた。足利義昭を奉じて上洛したことは、既に一時的な旧秩序の回復ではなく、
武力による新秩序の形成と全国支配の手段にすぎなかったのである。
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給樓下
只能說說大意,最近沒那麼閒
上洛就是指前往京都,日本以前的首都
因為中國的首都是洛陽,二一添做五,看起來差不多,故雅稱''上洛''
狹義的上洛,類似中國的挾天子以令諸侯,名義上為率軍保護將軍、鞏固其地位
實質則是展示武力,向其他大名臭屁,告訴大家我是最大的
打不贏我的,乖乖聽話不要白目,通常會要到個官做,證明不是嚇大的
廣義的上洛就是上京,就是拜謁將軍,去問候問候而已
歷史上只有2人成功上洛
一是大内義興(擁護足利義稙)目的為重建足利幕府權威,恢復舊制序
二是織田信長(擁護足利義昭)目的為用武力重建新秩序支配全日本
鷹有時飛得比雞還低,可是雞卻永遠不能飛得像鷹這樣高
PS我愛你 wrote:
印象中豐臣秀吉並沒有擔任過征夷大將軍,因為他不是武將出身的,沒有貴族背景,所以不能擔任這個位置...(恕刪)
日本戰國官制,大約最簡單(細節都不論)就分為公家(似文官)跟武家(似武官)
大部份的時候,武家是權力的中心,執掌日本的政治,如謙倉幕府的北條氏....
但從室町幕府瓦解到江戶幕府的時候
則特別以公家的職位來掌控大局
如信長的右大臣、秀吉的關白太政大臣(之後任太閣)......
至於征夷大將軍是否一定要有貴族背景?原則上是這樣...但也有例外....如秀吉
憑藉著信長的喜愛,當時擁護足利義昭時,另位也在幾場戰爭中任命過秀吉為大將軍,
故在一次秀吉已擔任關白太政大臣時曾經招見義昭,說了:你跟我曾經都在信長底下擔任過大將軍,
如今呢?你背叛信長,而我是關白太政大臣,你有何話說......
當然,也有可能,在信長委任下的秀吉為征夷大將軍算不得由天皇指任(所以不大算數)......
但,不可否認,當時是誰有權勢誰做主,有把天皇當神主牌拜就好了......
另外,前田慶次是真有其人,但野史中形容他,文采(詩、音樂、文化性...)比當武將出色.....